本を読むのはわりと好きな方だが、週刊誌の類は一切読まない。 週刊誌は単に好みの問題、例外はニュートン、これは月刊誌だ。 活字依存症のように、常に何かを読んでいなければ落ち着かないということはない。 読まない時はまったく本を手にすることもなく、読み始めると寝るのも惜しみ、 それが電車の中なら目的地へ到着しないことを希みながら読む。 単なる凝り性の延長だと思っている。 (この「つれづれに」のように!)
思い起こしてみると若い頃の読書というのは知識欲から読んでいたように思う。 中・高生の頃はお決まりのヘッセや森村桂なども読んだ。 「天国へ一番近い島」に憧れるという滑稽さも持ち合わせていたのだから我ながら笑える。 漱石の「こころ」を何十回も読み直したり、慎太郎「太陽の季節」や村上龍の「限りなく透明に近いブルー」 などを読み、何となく気取った気分になったり、、、まあ平均的な多感な少年だったということなのだろう。
最近では知識のためというより、電車の中や仕事の合間に、といった暇つぶしに読む事がほとんどだ。 落ち着かない性格のためか、ちょっとでも空き時間が出来ると間が持たない。 何かしているか、寝ているか、なのである。 音楽人として、もっとゆとりを持て!と自分に言いたい(笑)。 ジャンルはこだわらない。 松本清張も横溝正史も私小説も、筒井康隆も谷川俊太郎も好きだ。 海外の作品もたくさん読んだが、作家やタイトルを正確に覚えていることは希。
「暗い」という形容が付くことの全てが嫌い、と常々公言しているが例外がある。 読書好きな生徒に紹介したら「暗くて耐えられない、最後まで読めない」 と絶賛された(?)吉村昭の作品群だ。 テレビでもやっていたが、黒四ダム建設にまつわる実話をもとにした「高熱隧道」、 胃カメラ開発の話し「光る壁画」、冬眠時機を逸した羆が北海道の開拓村を襲う「羆嵐」など、 どれも臨場感が鮮明で読んでいると鼓動が早くなる。 「海馬(トド)」という短編集に収録されている「闇にひらめく」という作品は、 役所広司主演で「うなぎ」という映画になったと記憶している。 文字でこれだけの緊張感を表現できるのだから、我々生の音を扱う音楽家はもっと有利なはずではないか。 文字で想像力をかき立てられるのなら、生の音で実態を見せることが出来るはずではないか、 と、いつも考えてしまう。
さて、最近ではどんなものを読んだかというと、クリスチャン・ジャック「太陽の王・ラムセス」、 それに派生してウォルター・ワンゲリン「小説・聖書」等、思いは夢の中。 今は、書店で平積みになっていて(やはり効果あるんだなあ)目にとまった 小野不由美「屍鬼(しき)」を読破中である。 ホラーものといって良いのだろうか、死人がよみがえる「起きあがり」がテーマの1つになっている。 ドキドキしながらも軽く読めるので通勤には最適で、雑踏から逃れる事が出来る。
その中の一節に、家族の団欒を「あれほど温かく安穏とした特殊な状態」という記述があって、 家庭を持つ身としてはどきりとさせられるものがある。 続いて「どうしてなんの感慨も持たずに過ごしていられたのか、分からない」とある。 当たり前、ということは簡便ということではない。 当たり前のことを当たり前のように行うことは案外困難である。 音楽も人生も、その全ての真理は「当たり前」な事に帰属するのだと思う。 そう再認識させられる。
読書っていいなあ。
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